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最近「お城」をテーマとした観光記事が、新聞や週刊誌などで取り上げられることが増えてきました。
日本100名城のスタンプラリーも開催されています。
ところで、城を巡る楽しさはどこにあるのでしょうか?
一般的に日本で「城」と称される建造物のほとんどは、室町時代中期から江戸時代にかけて建築されたものです。
とりわけ戦国乱世の時代から安土桃山時代にかけて建築されたもの、改修されたものが目立ちます。
この時代は、数多くの攻防戦が繰り返され、様々な歴史模様を彩ってきました。
著名な武将が建築に携わっている城も少なくありません。
いざその場所に立ってみると、500年近くの時空を超えて、当時の息吹をダイレクトに感じとることができるのです。
かつて同じ場所で、同じ風を感じながら暮らし、戦ってきた記憶が蘇ってきます。
歴史上有名な武将たち が考えを張り巡らせ、どう行動したのかと思いにふけるのも贅沢なひと時です。
そんな醍醐味に浸ることのできるのも、城巡りの楽しみのひとつです。
また、石垣ひとつ見てみても、城ごとに特徴があります。
天守の型や漆喰の色、城内の配置もそれぞれ異なっています。
有名な城周辺は、市民の憩いの場になっていることが多く、花見や紅葉スポットになっています。
堀のある城ではコイが泳ぎ、気持ちが和らぎます。
高台にある城からは、市内を一望することもできますし、中には雲海を鑑賞できる場所もあります。
かつて日本国内には2万以上の城があったとされています。
中世までは武士(戦闘員)のみが駐在しており、主君やその家族は別の場所に館を構えて生活していたようです。
戦国時代後期から外郭が築かれ、主君や家臣団だけでなく、町民も暮らす城下町が形成されるようになりました。
しかし、江戸時代の慶長20年(1615年)に「一国一城令」が発布され、大名の住む城を除いてすべて棄却処分されてしまいました。
その後、大名の転封や改易などに伴って数を減らしていき、幕末の頃には200近くにまで激減します。
明治維新後も受難は続き、明治6年の「廃城令」によってほとんどの城が廃城棄却処分となってしまいました。
この時に棄却を免れた城も、その後の火災や戦災で焼失し、現在明治以前の天守が現存する城は12ヶ所のみとなっています。
(丸岡城、犬山城、松本城、彦根城、松江城、高梁城(備中松山城)、丸亀城、姫路城、松山城、高知城、宇和島城、弘前城)
戦後になって戦災等で焼失した城郭の復元作業が開始され、名古屋城ほか多くの名城が復活しました。
現在も市民の要望などもあり、多くの城郭で復興作業が行われています。
姫路城、会津若松城、小田原城などで城壁の改修が行われ、より当時の様式に近づいたことも記憶に新しいところです。
城を紹介するガイドブックやパンフレットの解説には、よほど歴史に精通していないと理解できない専門用語が使われていたりします。
ここでは、比較的使われる頻度が高い「お城用語」と、城の基礎知識を解説します。
一般的な城形態の区分としては、下記の3種類に分けられます。
最も初期に登場した形態で、険阻な山を利用して築かれた城のことです。
山は敵からの防御には有利である半面、住むにはとても不便な場所でした。
そのため、山城はあくまでも防御施設であり、実際の居住は麓に館を構えていたようです。
他の形態の城と比較すると、規模は小さい傾向にあります。
代表的な山城:竹田城(兵庫) 春日山城(新潟) 冨田月山城(島根)など
平地に築かれた城です。
戦国時代後期からは、軍事的な役割より政治・経済的な役割の方が重視されるようになりました。
そのため、不便な山岳より交通・商業流通に便利な平地に拠点を設けた方が都合がよかったのです。
海や湖、川に隣接して築城された城(水城)のほとんども、この平城に含まれます。
代表的な平城:名古屋城(愛知) 駿府城(静岡) 二条城(京都) 広島城(広島)など
平地の中にある低い山や、丘陵に築城された城です。
国内の城郭では最も多い形態であり、防御的な機能と政庁機能を併せ持っていました。
平城と比べて高い場所に位置していますので、城の防御にも有利で、領内の展望に恵まれている利点があります。
後ほどご説明しますが、曲輪(くるわ)を設置しているのも平山城の大きな特徴です。
代表的な平山城:江戸城(東京) 大坂城(大阪) 姫路城(兵庫) 熊本城(熊本)など
城のシンボルである天守閣(天守)、実は最初から設置されなかった城も多いのです。
天守閣は、城主が住んでいた場所とのイメージが強いのですが、居住空間として使用されることはほとんどありませんでした。
それでは、天守の本当の役割は何だったのでしょうか?
天守は、城内や遠方を見渡すための展望塔の役割を持っていました。
普段は物置として利用されることも多かったようです。
織田信長や豊臣秀吉の時代には、富と権力の象徴として盛んに造られましたが、徳川の世になると大幅に減少しました。
城主は本丸御殿などで居住・政務しており、物見の役割は「物見櫓」などで代用できるため、膨大な金額や労力を使ってまで天守を造る必要はなかったのです。
江戸城の天守も明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」により焼失以来再建されませんでした。
また、金沢城(石川)や水戸城(茨城)、鶴丸城(鹿児島)も天守はありませんでした。
それでも天守は城のシンボル、明治から現在に至るまで多くの城で再建されています。
ここでは、現存する城の天守閣について説明します。
明治維新より前に造られた天守で、先にご紹介した12城が存在します。
そのうち姫路城(兵庫)、松本城(長野)、彦根城(滋賀)、犬山城(愛知)、松江城(島根)の5城は国宝に、残りの7城は重要文化財に指定されています。
姫路城はユネスコ世界遺産の指定も受けています。
明治維新以後に再建された天守で、建築場所や外観をそのまま踏襲したものを指します。
木造で忠実に再現されたもの以外に、鉄筋コンクリートにて外観だけを再建した城も含みます。
再建とはいえ、築城当時の面影を残しているのが特徴です。
代表的な復元天守を持つ城:掛川城(静岡)、名古屋城(愛知)、大洲城(愛媛)など
復元天守と似ていますが、再現された天守が本来あった場所と違っていたり、外観が異なっているものを指します。
建築当時の史料が足りなかったために、推定で建造されてしまったなど様々な要因があります。
代表的な復興天守を持つ城:岐阜城(岐阜)、浜松城(静岡)など
もともと天守が設けられなかった城か、天守があったかどうか不明な城に再現された天守を指します。
過去に天守は実在しましたが、事情により全く別の場所に再建された場合も含みます。
無論、史料がないため、他の城を手本として再現されたケースが多く見受けられます。
代表的な模擬天守を持つ城:富山城(富山)、郡上八幡城(岐阜)、清州城(愛知)、伏見城(京都)など
難しい言葉ですが、曲輪とは城内において石垣や土塁などで区画された場所のことです。
城を紹介する場合に、「本丸跡」「二の丸跡」などの表記がされることがありますが、これが曲輪です。
本丸とは、城の最も中核となる場所のことであり、天守が築かれたり、「本丸御殿」を設置して城主の政務や居住場所になっていました。
以下、重要度に従って「二の丸」「三の丸」と続きます。
こうした曲輪が城内に多数設置された理由は、敵からの攻撃に対して本丸を守るまでの砦の役目を果たしたためと言われています。
抗戦時に臨時に造られるケース(出丸という)もあり、真田幸村が大坂城に築いた「真田丸」は代表的な例です。
なお、築城するにあたって曲輪の配置などを設計することを「縄張」と表現します。
城の構造物として目にする機会が多いのが、この櫓です。
天守が現存していない城でも、立派な櫓が残っているケースが多くあります。
櫓の目的は、本来攻め込んできた敵を攻撃したり、周囲を監視する「物見」のためでした。
やがて城内に時間を知られる役目(太鼓櫓・鐘櫓)や、月見をする場所(月見櫓)など様々な用途にも利用されるになりました。
江戸時代には、天守の代用として立派な櫓が建造することも多かったようです。
その形状によって、「三重櫓」「平櫓」「多聞櫓(たもんやぐら)」などの表現がされています。
城の出入り口は虎口と呼ばれます。
正面の虎口は「大手門」、裏側の虎口は「搦手(からめて)門」と通称しています。
堀を造る目的は、いうまでもなく敵の城内への侵入を防ぐためです。
堀の種類は「水堀」と「空堀」に大別されます。
山城の場合は水の貯蔵が困難なため、土壌を深く掘りこんだ「空堀」を設置していました。
水堀に架かる橋は、多数の敵が侵入することを防ぐために、通常幅が狭く設計されています。
城跡の中には石垣だけしか現存していない場所も多く存在します。
それだけでも往時の繁栄を感じ取ることができて、城巡りの楽しみのひとつとなっています。
石垣は、城の防御や建物の土台の役目を果たします。
より高く積み、急勾配であるほど防御能力は強大になります。
近代的な石垣は近江・観音山城が最初とされますが、本格的に普及を始めたのは、織田信長の安土城だとされています。
このとき信長にスカウトされた石工集団・穴太衆(あのうしゅう)は、豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけて多くの城の石垣造りに携わってきました。
石垣の石の中には、どうやって移動したのか不思議なほどの巨大なものもあり、当時の土木技術の高さが伺えます。
また、石の代わりに土砂を用いたものは「土塁」と言われ、関東の城に多く見られます。
明治時代になって本格的な開拓が行われるまで、北海道が日本の歴史上に登場することは滅多にありません。
蝦夷地とよばれ、そのほとんどの地域がアイヌ居住地であり、中央権力が及ばない場所でした。
その中で唯一、南部・渡島半島を拠点として蝦夷地を支配していたのが「松前藩」です。
松前藩は、室町時代に下北半島から蝦夷地に渡ったと考えられる蠣崎(かきざき)氏をルーツとします。
戦国期の当主・蠣崎季広(1507-1595)は、その政治力によって現地での戦国大名としての地位を不動のものにしました。
季広の子・蠣崎慶広(1548-1616)は、天下を平定した豊臣秀吉や徳川家康に接近し、本領を安堵することに成功します。
そして姓名を松前慶広と改め、松前藩の基礎を築いたのです。
松前藩の経済基盤は、アイヌとの交易が中心となっていました。
家格は1万石の大名、幕末には3万石の加増されて藩主・松前 崇広は老中に就任しています。
松前城は我が国で最後段階に築城された日本式城郭のひとつであると同時に、北海道内でも唯一の日本式城郭です。
嘉永2年(1849年)に、ロシアからの侵攻に備えて藩主・松前 崇広によって築城されました。
3重の天守を持ち、砲台を備えるなど本格的な城郭だったと伝わります。
しかし、明治元年(1868年)の箱館戦争の折り、旧幕府軍の土方歳三率いる700名の攻撃を受け、わずか数時間で落城の憂き目に遭ってしまいます。
明治になって、天守など本丸施設を除く建造物のほとんどが取り壊しになりましたが、残った本丸周辺施設は昭和16年(1941年)に国宝に指定されました。
ところが、昭和24年(1949年)に火災が発生して天守が焼失してしまいます。
現在の天守は昭和36年(1961年)に再建されたものです。
再建された天守の内部は資料館となっており、松前藩およびアイヌ民族の貴重な資料が展示されています。
本丸御殿跡は、国の重要文化財に指定されています。
また、松前城一帯は桜の名所としても有名です。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1849年
築城主 : 松前 崇広
住所 : 北海道松前郡松前町松城144
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0139-42-2216
定休日 : 12月11日~4月9日
営業時間 : 9:00~7:00(16:30まで入場)
料金 : 大人 360円、小中学生 240円
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函館市最大の観光スポットである五稜郭は、国内では珍しい西洋式の城郭です。
五芒星型の美しい城郭は、隣接する五稜郭タワーから全貌を確認することができます。
また、箱館戦争の舞台としても大変有名な城です。
五稜郭は江戸幕末の慶応2年(1866年)に、当時の江戸幕府によって築城されました。
安政元年(1853年)の日米和親条約締結によって、箱館(函館)が開港されると、当地に箱館奉行所を設置しました。
やがて諸外国の脅威に直面した幕府は、蝦夷地の防衛力強化のため箱館奉行所の移転を決め、移転先の防御のため五稜郭を築城したのです。
この五稜郭設計に尽力したのが蘭学者・武田斐三郎、当時箱館に駐留していたフランス軍の助言を得ながら、ヨーロッパ式の城郭を設計したのです。
しかし、わずか4年後に江戸幕府は崩壊し、五稜郭の任務は終わってしまいました。
大政奉還(1868年)のあと、五稜郭は新政府によって設置された「箱館府」の政庁とて使用されます。
ところが、幕臣・榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館に上陸、五稜郭を占領してしまったのです。
榎本の狙いは、蝦夷地に貧窮した旧幕臣を移住させて、開拓および北方警備に当たらせようとするものでした。
榎本は五稜郭に政庁を置いて「蝦夷共和国」樹立を宣言、総裁に就任しました。
やがて北上してきた新政府軍との間に戦闘が始まります。
これが、長く続いた戊辰戦争の最終章となった箱館戦争です。
皮肉なことに五稜郭は、日本人同士の戦場となってしまいました。
数に劣る榎本軍は苦戦のすえ降伏、半年の戦闘で箱館戦争は集結したのでした。
五稜郭一帯は「五稜郭公園」として整備され、函館市民の憩いの場となっています。
毎年4月下旬には園内のソメイヨシノが満開になる花見の名所でもあります。
隣接する五稜郭タワーは高さ107メートル、五稜郭の全貌のほか函館山や津軽海峡の展望が楽しめます。
城郭構造 : 稜堡式
築城年 : 1866年
築城主 : 徳川幕府
住所 : 北海道函館市五稜郭町44
マップ : Googleマップ
アクセス : 函館駅からバスで20分
電話番号 : 0138-51-4785(五稜郭タワー)
営業時間 : 9:00~18:00(時期により変動あり:五稜郭タワー)
料金 : 大人 900円、中高生 680円、小学生 450円(五稜郭タワー)
公式サイト : 五稜郭タワー
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弘前城は、桜の名所として全国的に有名な場所です。
「現存12天守」の最北端の城であり、城内には「二の丸辰巳櫓」や「二の丸東門」など多くの重要文化財が残されています。
石垣や土塁、堀はほぼ原形のまま現存されている貴重な場所です。
弘前城は江戸期、津軽藩4万7千石の居城だったところです。
津軽藩の藩祖・津軽為信(1550-1608)は、元の名を大浦為信といって東北の名門・南部家の家臣筋でした。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原出陣に際して、主家である南部家に先駆けて秀吉に臣従し、津軽支配のお墨付きを得ます。
事実上南部家から独立し、津軽地方の大名としての地位を得たわけです。
このとき、旧姓である大浦から津軽へ改姓しています。
為信は関ケ原合戦では、徳川家康に味方して、津軽藩の基礎を築きました。
しかし、為信の一連の行動は、主家であった南部家からすれば、許しがたい裏切り行為として映ったのです。
弘前城は慶長3年(1603年)に築城が開始され、2代藩主・為枚の時代の慶長16年(1611年)に完成します。
当時、鷹岡城と呼ばれていましたが、為枚が帰依していた幕府顧問の僧・天海により弘前城に改称しています。
現存する弘前城の天守は、厳密には天守ではなく櫓(御三階櫓)として扱われていました。
文化8年(1810年)に再建された際に、幕府への配慮から櫓の改修として届けられたのです。
この現存天守(3重3階)の前に存在した初期天守は、もっと大きく5重6階もあったと言われています。
寛永4年(1627年)、突然落雷があり、天守内部に貯蔵してあった火薬庫に引火、天守ほか本丸御殿や櫓を焼失してしまいました。
その後再建されるまで200年近く、弘前城は天守のない状態が続いたのです。
この落雷は、藩祖・津軽為信の正室、阿保良の姉の祟りであると噂されました。
阿保良の姉の夫は南部家の一族であり、為信が南部家を裏切った際に離縁させられ、のち為信によって殺害されたと言われています。
失意のなか没した阿保良の姉の怨霊が、紅蓮の炎の中に現れて恨みの言葉を述べたということです…
弘前城を中心とした一帯は、現在「弘前公園」として整備されて弘前市民の憩いの場となっています。
春の桜まつりのほか、夏の「ねぷたまつり」、秋の「菊と紅葉まつり」などイベントが多数開催されています。
弘前城は現存天守のほか、多くの重要文化財など見どころが豊富にあります。
周辺にある「長勝寺構」と「新寺町」の2つの寺町、仲町の武家屋敷散策はとても情緒があっておすすめです。
城郭構造 : 梯郭式平山城
築城年 : 1611年
築城主 : 津軽為信・為枚
主な城主 : 津軽氏
住所 : 青森県弘前市下白銀町1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0172-33-8739(弘前市役所・公園緑地課)
定休日 : 11月24日~3月31日
営業時間 :
料金 : 大人 320円、小人 100円
公式サイト : 弘前城
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「青葉城」とも称され、かつて歌の題名にもなった仙台城。
独眼龍・伊達政宗が築いた天下の名城は、今やかつての面影はありません。
石垣と復元された櫓が残っているだけです。
しかし、この城跡から往時の繁栄を偲ぶことができます。
東北地方最大の都市であり、日本でも有数の大都市である 仙台 。
伊達政宗(1567-1636)が、この地を仙台藩62万石の政庁と定めたのが、都市形成のはじまりとなっています。
政宗は、海が近く平野が広がり、奥州街道の通過点である仙台を、将来性のある街であると考えて遷都したと言われます。
今の仙台市の繁栄を見ると、伊達政宗の先見の明に驚かされます。
仙台城は、慶長5年(1601年)に青葉山に築城されました。
標高は最も高い場所で131m、東側は広瀬川に落下する64mの断崖、南側は80mの竜ノ口峡谷と、まさに天然の要害でした。
家康に配慮した政宗は、仙台城には天守を築きませんでした。
その代わり「千畳敷」と言われる広大かつ豪華絢爛な大広間を造って、城の中心にしたと言われています。
仙台城は、明治維新を迎えるまで仙台藩の拠点としての役目を果たしてきました。
残念ながら明治から大正にかけて大半を失い、残っていた遺構も仙台大空襲によって米軍機に焼かれてしまい、石垣を除くすべての遺構を失ってしまいました。
昭和39年(1964年)に大手門脇櫓が復元されていますが、この櫓が江戸時代の姿を示す唯一の建造物となっています。
仙台城跡は「青葉山公園」として整備されています。
仙台市の「緑の名所100選」に選定される自然豊かな場所です。
眼下に見下ろす市内の展望は素晴らしく、特に夜景はおすすめです。
また、政宗公の「騎馬像」は必見スポットです。
城郭構造 : 連郭式平山城
築城年 : 1601年
築城主 : 伊達政宗
主な城主 : 伊達氏
住所 : 宮城県仙台市青葉区川内
マップ : Googleマップ
アクセス :
公式サイト : 仙台城
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福島県会津若松市のシンボル・会津若松城は白亜の城郭が美しい名城です。
また、戊辰戦争の悲劇を今に伝える、悲しい歴史を持った城です。
「会津鶴ヶ城」の名でも知られています。
戦国時代に伊達政宗が名門・蘆名氏を滅ぼして以来、会津の地は東北の要衝として有力大名に支配されてきました。
伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝…いかにこの地が重要視されてきたの理解できます。
会津藩が徳川親藩によって統治されるのは、寛永20年(1643年)将軍家光の異母弟・保科正之が入封してからのことです。
以来会津松平家(保科氏から改姓)は、家訓15ヶ条を定め、徳川幕府第一の立場を貫くことになります。
幕末を迎え、当主・松平 容保(まつだいら かたもり)は京都守護職に就任します。
幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を徹底的に行った会津藩は、のちの新政府から恨みを買い、戊辰戦争の悲劇を生むことになってしまったのです。
大政奉還による江戸城の無血開城後、新政府の矛先は会津藩に向けられます。
東北諸藩の会津赦免の嘆願は無視され、会津の街は戦火に包まれてしまいました。
白河口〜二本松〜母成峠と戦線は続き、遂に会津若松城は落城、会津藩は降伏するに至ったのでした。
城下での火災を、若松城炎上と間違えて飯盛山で自刃した白虎隊の悲劇は、後世まで長く伝えられることになります。
この戦による新政府軍の乱暴狼藉は、現在にいたるまで会津の地に深い禍根を残してしまいました。
昭和40年(1965年)に再建された天守は、郷土博物館となっており、若松城の歴史や幕末の動乱を知ることができます。
5層の天守展望台からは、会津市内を眺望できます。
また、平成23年(2011年)に幕末時代の赤瓦が再現されました。
周辺には松平家の庭園だった「御薬園」や重要文化財「さざえ堂」、白虎隊自刃の地「飯盛山」など観光スポットが満載です。
城郭構造 : 梯郭式平山城
築城年 : 1384年
築城主 : 蘆名直盛
主な城主 : 伊達政宗、上杉景勝、蒲生氏郷、保科正之
住所 : 福島県会津若松市追手町1-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0242-27-4005 (会津若松観光ビューロー)
営業時間 : 8:30~17:00
料金 : 大人 410円、小中学生 150円
公式サイト : 会津若松城
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皇居としての存在感が大きすぎるため、江戸城跡といってもピンとこないかもしれません。
しかし、皇居の広大な敷地からも、かつての江戸城の大きさは推測できます。
東西約5.5km、南北約4km、周囲は約14kmの城域を誇り、日本最大級の近代城郭でした。
この居城にて、徳川幕府265年の政務が行われていたのです。
ところが、年月を経るにつれ徳川幕府の力は衰退していきます。
王政復古、大政奉還、そして戊辰戦争の流れのなか、新政府軍が目指した江戸攻撃は直前で回避されました。
西郷隆盛と勝海舟による江戸城明け渡し交渉により、江戸城は無血開城したのです。
その後の江戸城が天皇の「宮城」となることは、既にご存知の通りです。
江戸城の歴史は、室町時代後期の武将・太田 道灌が築城したのがはじまりです。
天正18年(1590年)小田原仕置の恩賞として、豊臣秀吉から関東八州を与えられた徳川家康は、居城を江戸に移します。
ブレーンであった天海僧正の意見を取り入れた家康は、風水の知識を駆使して最強の居城、街づくりを行ったのです。
江戸城の鬼門(東北の方角)に菩提寺である寛永寺を置き、その延長線上に日光東照宮を設置しました。
さらに裏鬼門(南西の方角)に増上寺を建立して、江戸城に悪い気が入りこむのを阻止しました。
また、城郭の曲輪を渦巻状に配置して、富士山からの竜穴パワーを江戸城に入りこませるほどの念の入れようでした。
かつて江戸城には巨大な天守閣が聳えていました。
3度ほど再建されていますが、最終的な天守閣は元和8年(1622年)に建てられた「元和度天守」です。
その大きさは、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型で、高さは60mもあったと推定されています。
この天守は明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」で焼失してしまったのです。
幕府としては再建する方針で、加賀藩主・前田家に命じて天守の土台を完成させます。
いざ天守を再建しようとする段階で、待ったをかけたのが将軍・家綱の後見人だった保科正之。
天守再建に莫大な費用をかけるなら、大火で壊滅した江戸の街を再興するのが先決だと…
それ以来、江戸城では天守は再建されませんでした。
諸大名も、将軍家に気を遣い、以降の天守建造を自粛するようになったと言われています。
皇居は、外苑と北の丸公園は常時一般開放されています。
千鳥ヶ淵公園や田安門・清水門、桜田門や楠木正成像など見どころはたくさんありますが、何といってもおすすめなのが「皇居東御苑」。
この場所は旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸のあった場所で、天守台、本丸跡、赤穂浪士で有名な「松の廊下」跡など魅力的なスポットが満載です。
毎週月曜・金曜と年末年始は休園で、それ以外であれば手続きが必要ですが、入園することができます。
城郭構造 : 輪郭式平城または平山城
築城年 : 1457年
築城主 : 太田 道灌
主な城主 : 徳川家康ほか徳川将軍家
住所 : 東京都千代田区千代田1-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 03-3213-1111
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東京都八王子市の地名の由来となった八王子城は、織田信長の安土城を参考にしたとされる関東屈指の山城です。
東西約3km、南北約2-3kmの範囲にも及ぶ巨大な城で、落城時はまだ未完成だったとも言われています。
この八王子城、最近では関東屈指の心霊スポットとしても有名になっています。
八王子城は北条氏照によって、天正15年(1587年)頃に築城されたと言われています。
標高445mの深沢山に築城され、北条家の有力な拠点でした。
天正18年(1590年)6月、八王子城は非常に凄惨な落城をします。
豊臣秀吉による小田原攻めは最終段階となり、城主・北条氏照ら主力武将は小田原城に入城していて留守でした。
当時八王子城に籠っていたのは、城代・横地監物らわすかの武将の他は、婦女子と動員された農民3000人程度だけだったと言われています。
豊臣軍は八王子城を猛攻撃し、わずか数時間で落城してしまいました。
城内にいた者は、見せしめのためにほとんど殺戮され、氏照の正室や婦女子は「御主殿の滝」で自刃、身投げしたとされています。
そのため、御主殿の滝は、三日三晩、鮮血で真っ赤に染まったとも伝えられるほど凄惨なものだったようです。
麓にはガイダンス施設があり、八王子城の歴史をゲーム感覚で知ることができます。
御主殿跡へ通じる虎口と冠木門が、当時の石垣や石畳を利用して復元されています。
遊歩道も整備され、多くの遺構をハイキング気分で散策可能です。
しかし、夜間に訪問することはおすすめできません。
霊はともかく、周囲が暗くて危険です。
城郭構造 : 山城
築城年 : 1587年頃
築城主 : 北条氏照
住所 : 東京都八王子市元八王子町3丁目、西寺方町、下恩方町
マップ : Googleマップ
アクセス :
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小田原名物と聞いて思い浮かぶのは、提灯、かまぼこ、梅、そして小田原城でしょう。
小田原城は、関東地方では珍しい本格的な天守をもった城であり、最も有名な城郭のひとつです。
この城は室町時代中期の応永24年(1417年)に、大森頼春によって築城されました。
その大森氏から小田原城を奪取したのが伊豆の領主・伊勢 宗瑞、のちの北条早雲です。
以後約100年に渡り、北条氏は小田原を拠点に関東を支配したのです。
北条氏の滅亡後ののち、徳川幕府によって「小田原藩」の居城となり、大久保氏をはじめとする譜代有力大名の支配が幕末まで続きました。
東海道の要衝として、いかに小田原の地が重要視されてきたのかがわかります。
小田原城が最も繁栄し、その名前を歴史に轟かせたのは、戦国期の北条氏の時代だといっても過言ではありません。
最盛期には関東地方のほぼ全域を支配下に置き、全国でも屈指の戦国大名にまで成長したのです。
代々の城主は善政を施し、領民には非常に親しまれていたと言われています。
室町幕府の官僚出身の伊勢 宗瑞(北条早雲)を祖とする北条氏は、2代・氏綱の時代に、小田原城に拠点を置き、「北条」の姓を名乗り始めたと言われます。
3代・氏康の時代に最盛期を迎え、関東一帯を勢力下におくことに成功します。
武田信玄や上杉謙信の侵攻を、得意の籠城戦で退けるなど、小田原城が難攻不落の無敵の名城として知られるのはこの頃からです。
続く氏政の時代も、徳川家康ら有力大名との縁組を重ねるなどして、関東の覇者としての地位を保持してきました。
この時代の小田原城の外郭は広大なものであり、小田原の街全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲むほどでした。
しかし、小田原城の難攻不落に過信し、関東の覇者としての驕りが氏政の足をすくう結果を招きます。
天正18年(1590年)関白秀吉の怒りに触れ、総勢20万の大軍からなる征伐を受けてしまいます。
絶望的な籠城戦に持ち込みますが、戦局は悪化を辿り、城内にて「小田原評定」を繰り返すしか手立てがなくなりました。
5カ月に及ぶ戦いの結果、小田原城は開城。
ついに北条氏は滅亡したのでした。
長く続いた戦国時代の終焉でもありました。
昭和35年(1960年)に復元された3重4階の天守は、屋根や外壁の改修工事が完了し平成28年(2016年)にリニューアルオープンしました。
天守内部の展示室では、戦国~江戸にかけての小田原城の貴重な史料などを閲覧することができます。
また、小田原城を中心とした「城址公園」には、常盤木門、銅門、馬出門が復元され、小田原城全盛時代の遺構を確認できます。
毎年ゴールデンウイーク期間中に開催される「北条五代まつり」は、有名俳優が城主に扮してパレードをするなど、おすすめのイベントです。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1417年
築城主 : 大森頼春
主な城主 : 小田原北条氏、大久保忠世、稲葉正勝
住所 : 神奈川県小田原市城内6-1
マップ : Googleマップ
アクセス : 小田原駅から徒歩で10分
電話番号 : 0465-22-3818
定休日 :
営業時間 :
料金 : 一般510円、小中学生200円
公式サイト : 小田原城
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春日山城は戦国の名将・上杉謙信の城として広く知られています。
複雑な自然の地形を利用した堅固な城塞から、難攻不落な天下の名城と言われていました。
現在城郭は残っていませんが、空堀や土塁が残り、かつての面影を偲ばせています。
春日山城がいつ築城されたのか、詳しいことはわかっていませんが、南北朝時代まで遡ると考えられています。
しかし、現在城跡として残っている城域まで整備したのは、謙信の父・長尾為景以降のことです。
以来為景、晴景(謙信の兄)、謙信、景勝の4代の居城となりました。
上杉謙信(1530-1578)は義を重んじ、戦はめっぽう強い名将として人気が高い人物です。
元の名は長尾景虎。
関東管領・上杉憲政から上杉の家督と関東管領職を譲られて「上杉謙信」と名乗るようになりました。
毘沙門天に深く帰依し、「毘」の軍旗を翻しながら、戦場では無敵の強さを発揮しました。
また、生涯不犯(妻帯禁制)を貫き、女性を近づけなかったとも言われています。
謙信の最大のライバルは甲斐の名将・武田信玄。
有名な川中島の合戦は、信玄に領地を奪われた信濃の国衆を助けるために行ったのであり、自身には何の得にもならない戦いでした。
その信玄が今川氏などから「塩留め」の制裁を受けた際には、困った甲斐の領民のために塩を送ったとも伝えられています。
信玄の訃報を聞いたときは「名将を失った」と深く落胆し、涙したと言われています。
春日山城は戦国武将ファン、とりわけ謙信ファンにとっては聖地のような場所です。
謙信公の銅像にお会いできますし、謙信の帰依した毘沙門堂も復元されています。
山頂にあったとされる本丸・天守台からは頸城平野が望め、眼下に広がる上越市街や日本海までも一望できます。
城郭構造 : 連郭式山城
築城年 : 南北朝時代(詳細不明)
築城主 : 上杉氏
主な城主 : 上杉謙信・上杉景勝
住所 : 新潟県上越市中屋敷、大豆
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 025-545-9269(上越市文化行政課)
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大ヒットしたNHK大河ドラマ『真田丸』の聖地・上田市から街の至るところで「六文銭」を見かけます。
天才軍略家・真田 昌幸、その次男で「日本一のつわもの」と称された真田信繁(幸村)。
真田一族はこの街の誇りです。
そして、2度までも徳川の大軍を退けた名城・上田城は、上田市の栄光のシンボルになっています。
上田城は天正11年(1583年)、真田昌幸によって築城されました。
千曲川(その分流尼ヶ淵)に望む段丘の崖を利用して築城されており、真田昌幸は2度の上田合戦によって徳川軍の攻撃を撃退しています。
このような実戦経験をもち、輝かしい戦歴がある城は全国でも例がありません。
上田城に天守があったかどうかは諸説あり、実際のところわかっていないのが実情です。
天正10年(1582年)主家である武田氏が滅亡、次に臣従した織田信長も3ヵ月後に横死してしまいます。
織田の残存勢力が一掃された関東・甲信越地方は、上杉、徳川、北条などの有力大名による勢力拡張の戦場と化します(天正壬午の乱)。
真田昌幸は領地である北信濃・上州沼田を守るべく、有力大名の間を巧みな外交戦術で乗り切ろうとしました。
天正11年(1583年)、徳川の配下にあって北条氏と敵対していた昌幸に衝撃が走ります。
徳川と北条が和睦し、条件として真田領だった沼田の領地を、昌幸の承諾なしで北条に譲り渡す約束をしてしまうのです。
この徳川家康の突然の裏切りに昌幸は激怒、沼田引き渡しを拒否すると同時に上杉氏に接近して、徳川との縁切りを宣言します。
家康は、7000万の軍勢を上田城に差し向けます。
対して真田側面はわずか1500名程度。
しかし、地の利を生かした巧妙な戦術を駆使して、徳川軍を敗走されます(第一次上田合戦)。
慶長5年(1600年)関ケ原合戦前夜、真田昌幸親子は家康に従って上杉討伐の途上にありました。
道中の下野で石田三成の挙兵を聞き、味方につく要請を受けた昌幸は承諾、長男・信幸を徳川に残して上田に戻ります。
昌幸と次男・信繁は上田城に籠城、中山道経由で関ケ原に向かう徳川秀忠麾下38000の兵を、わずか3000の兵で打ち破ります(第二次上田合戦)。
秀忠の軍を関ケ原の主戦場に間に合わせなくする功績をあげました。
しかし、関ケ原合戦は三成方の敗北。
敗将となってしまった昌幸・信繁父子は紀州九度山に蟄居、上田城は徳川方によって破壊されてしまいます。
上田の地を引き継いだ信幸(信之)は、破壊された三の丸跡地に屋敷を構えて、領国支配をするしかありませんでした。
14年後の慶長19年(1614年)、蟄居中の九度山(和歌山)から大坂城に駆け付けた信繁は、「大阪の陣」で徳川軍を相手に善戦しました。
最後は家康の本陣へ突入して、一時的に3度目の勝利目前にして散った信繁は「真田幸村」の名で後世に名を残すことになります。
『真田丸』ブームの余韻が残る上田城は、南櫓・北櫓・東虎口櫓門が復元され、空堀や土塁も残っていて往時の面影を残しています。
敷地内にある市立博物館では、真田家の貴重な遺品などが展示されていて、必見に価値があります。
また、上田城址公園は、桜の名所としても全国的に有名です。
城郭構造 : 梯郭式平城
築城年 : 1583年
築城主 : 真田昌幸(徳川家康説もあり)
主な城主 : 真田昌幸 仙石氏 松平氏
住所 : 長野県上田市二の丸
マップ : Googleマップ
アクセス :
定休日 : 水曜日・年末年始・祝祭日の翌日
営業時間 : 8:30~17:00(入場16:30まで)
料金 : 一般 300円、高校生以上 200円、小中学生 100円
公式サイト : 上田城
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松本城は戦国時代初期に築城された深志城が前身で、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。
城壁の黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて、まさに「絵になる」見事な景観をみせてくれます。
国内にある城の中でも、トップクラスの集客力を誇る名城です。
松本城は永正元年(1504年)に信濃国守護だった小笠原貞朝によって築城されたと言われています(諸説あり)。
天文19年(1550年)に武田信玄の侵攻を受けて当時の城主・小笠原長時は逃亡、武田氏の所有になります。
その後、小笠原一族が復帰して、深志城を「松本城」と改名しています。
石川数正が城主だった頃に、天守を始め、城郭・城下町の整備がされました。
江戸時代には「松本藩」の政庁として、堀田氏、松平氏、水野氏、戸田氏など徳川親藩・譜代有力大名の居城となり明治維新を迎えました。
上記のように歴代松本城の城主はめまぐるしく代わっています。
その中で、特記すべき城主を紹介します。
まず松本城を築城し、初期に城主として君臨した信濃守護・小笠原家。
知名度はいまいちですが、意外にも名門一族なんです。
清和源氏の流れをくみ、武士の「有職故実(古来からのしきたりや制度、儀式など)」を伝える家柄でした。
茶道で今も続く「小笠原流」はこの系統ですし、弓馬術礼法の「小笠原流礼法」も代表的です。
信濃を発祥とし、傍流は阿波(徳島)や石見銀(島根)、遠江(静岡)など各地に広まっていきました。
戦国期に室町幕府を主導した梟雄・三好長慶も、この一族の出身です。
小笠原諸島を発見したのも、小笠原一族だと言われています。
石川数正は、徳川家康に幼少期から仕えてきた側近中の側近です。
家康に対する忠義は絶大で、多くの局面で家康を補佐し実績を重ねてきました。
ところが、突然出奔して家康のもとを去り、秀吉の配下になってしまったのです。
原因は諸説あって本当の理由はわかりませんが、家康の衝撃は大変なもので、以後、徳川軍は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めるほどでした。
秀吉の下で松本10万石を治め、松本城の本格的な造営や城下町造りを推進しました。
水堀に囲まれた松本城構内は、黒門や月見櫓、深紅の橋など見どころは豊富にあり、散策するには心地よい場所です。
国宝・天守は行列必至スポットですが、内部は古き城の佇まいをそのまま残しています。
晴れた日に天守から望むアルプスの峰は絶景です。
城郭構造 : 平城
築城年 : 1504年頃
築城主 : 小笠原貞朝
主な城主 : 小笠原氏、石川数正・康長父子、堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)など
住所 : 長野県松本市丸の内4番1号
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0263-32-2902
定休日 : 年末年始
営業時間 : 8:30~17:30(入場は16:30まで)※時期により変動あり
料金 : 大人 700円、小中学生 300円
注意点 : 天守内土足禁止
公式サイト : 松本城
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名古屋市のシンボルといえば名古屋城、 名古屋観光 では欠かせない観光スポットです。
名古屋城は江戸時代になって築城された、戦国の乱世を経験していない城です。
徳川御三家の筆頭・尾張藩の居城として君臨してきました。
戦国時代に、ほぼ同じ場所に「那古野城(なごやじょう)」という城が存在しました。
那古野城は織田信長が誕生した城と言われていますが、ずっと廃城になっていました。
この時代の尾張国の中心は名古屋ではありませんでした。
名古屋の北・清州(現在の清須市)であり、清州城が支配拠点だったのです。
名古屋城は、徳川家康が九男・義直を藩主として「御三家・尾張藩」を創設する際に築城されました。
それまでの拠点・清州の土地は水害に弱く、より強固な場所に新拠点を構える必要があったのです。
そこで、かつて那古野城があった場所に白羽の矢が立てられることになったのです。
こうして慶長17年(1612年)に旧那古野城の跡地に完成しました。
名古屋城を築城するにあたって家康は「天下普請」によって西国大名を動員しました。
天下普請とは幕府が諸大名に土木工事を命じることで、来るべき豊臣家との決戦に備えて、豊臣恩顧の大名や外様大名の力を削ぐ狙いがあったと考えられています。
こうした事情もあり、天守台石垣部分は、豊臣恩顧の有力大名・加藤清正が担当し、難工事の末に完成させました。
名古屋移設に伴って、これまでの清須城は廃城となり、「清州越え」と言われる大々的な都市移転が行われました。
この清州越えが、現在の名古屋市を築く礎となったのです。
名古屋城は尾張藩の居城として幕末まで存続しましたが、明治初期に廃城・棄却の危機に直面したことがありました。
当時の政府元勲・山県有朋の指示によって廃却は免れたものの、太平洋戦争中の空襲によって天守閣ほか焼失してしまいました。
現在の天守は昭和34年(1959年)に再建されたものです。
また、天守を現状の鉄筋コンクリート造りから、築城当時の木造へ立て直す計画も進められています。
名古屋城のシンボル・金の鯱は、建物の守り神として天守屋根に設置されています。
鯱とは、虎の頭をもった魚形の想像上の動物です。
この金の鯱、慶長17年(1612年)に竣工した際には、純金にして当時の慶長小判1940枚分、215.3kgが使用されたと言われています。
また、高さは約2.74mもあったとされています。
過去に何度か盗難事件に会いましたが、昭和20年(1945年)の名古屋大空襲によって天守とともに焼失してしまいました。
そのため、現在の金の鯱も昭和34年(1959年)に天守とともに再建されたものです。
名古屋城は「名城公園」の敷地内にあり、大天守閣と小天守閣が一般公開されています。
天守内は博物館になっていて、甲冑や刀、絵画などが展示され、最上階(7階)は展望台になっています。
一番の見どころは復元された「本丸御殿」です。
10年間にわたり少しずつ復元が進められ、2018年6月に完全公開となりました。
天井画や襖絵は、当時の絵師が使っていた素材や技法を用い、江戸時代の絵師たちの感性とダイナミズムまでも忠実に復元されています。
近世城郭御殿の最高傑作と言われた豪華絢爛な造りは、思わず声がもれてしまうほど美しいですよ。
また、戦災を免れた隅櫓や門も、江戸期の歴史が刻まれた情緒ある必見スポットです。
城郭構造 : 梯郭式平城
築城年 : 1609年
築城主 : 徳川家康
主な城主 : 尾張徳川家
住所 : 愛知県名古屋市中区本丸1-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 052-231-1700
定休日 : 年末年始(12月29日~1月1日)
営業時間 : 9:00~16:30(天守は16:00まで)
料金 : 大人 500円、中学生以下無料
公式サイト : 名古屋城
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愛知県の最北部、木曽川を挟んで岐阜県と接する88mの高台に聳える犬山城は、同市のランドマーク的な存在です。
別名「白帝城」は、『三国志』にも登場する揚子江流域の城に、佇まいが似ていることから名付けられたと言われています。
現在は天守のみしか残っていませんが、この天守は室町時代の天文6年(1537年)頃建造された日本最古の木造天守で、国宝に指定されています。
犬山城は織田信長の叔父・織田信康によって築城されました。
前身はさらに古く、15世紀中旬に造られた岩倉織田家の砦であったとされています。
その後、城主はめまぐるしく代わり、最終的には尾張藩筆頭家老・成瀬氏の居城となって幕末を迎えます。
この城の特徴は、国宝に指定されながらも平成16年(2004年)まで、個人所有・成瀬家の所有物だったのです。
現在は成瀬家の子孫が理事長を務める「公益財団法人・犬山城白帝文庫」の所有となっております。
犬山城の天守は、本来の城の姿をとどめた貴重な遺構となっています。
この天守の展望台から見る木曽川の風景はすばらしいものです。
特に桜のシーズンと木曽川の鵜飼いの時期の訪問がおすすめです。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1537年
築城主 : 織田信康
主な城主 : 織田氏、池田氏、石川氏、成瀬氏
住所 : 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0568-61-1711
定休日 : 12月29日~12月31日
営業時間 : 9:00~17:00(入場は16:30まで)
料金 : 大人550円、小中学生110円
公式サイト : 犬山城
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日本列島のほぼ中央にあり、古来から重要拠点とされてきた美濃。
「美濃を制するものは天下を制する」という言葉どおり、この地は幾多の政争の舞台になってきました。
岐阜市内・標高329mの金華山頂に聳える岐阜城の歴史は古く、鎌倉時代初期にまで遡ります、
建仁元年(1201年)に幕府政所別当・二階堂行政によって砦が築かれたのがはじまりです。
しばらく廃城となっていたこの城が修復され、にわかに脚光を浴びることになったのは戦国時代になってからのことです。
当時は稲葉山城と呼ばれていました。
斉藤道三(1494-1556)は下剋上の代表的な人物で、一説によると一介の油売り商人から身を起こし、権謀術数を用いて美濃一国の領主となりました。
身を立ててくれた恩人すら抹殺するなどの冷徹な手法で、最終的には美濃の守護であった土岐氏を追放して後釜に座ったのです。
「まむし」と言われた斉藤道三は、稲葉山城を拠点としました。
その道三の娘婿が織田信長(1534-1582)です。
道三亡き後の斉藤氏を滅ぼして美濃を攻略、それまでの稲葉山城を「岐阜城」と改めて天下布の拠点とします。
信長の時代に「楽市・楽座」の政策が行われ岐阜城下は大変な賑わいを見せました。
その後、信長は岐阜城を嫡子・信忠に譲って安土城を拠点としますが、本能寺の変でたおれます。
信長正室・濃姫の母の実家(道三の妻)が明智氏の出身だったのは皮肉な巡り合わせです。
信長・信忠の死後、豊臣秀吉の時代になって岐阜城主は目まぐるしく代わりますが、事実上最後の城主になったのは織田秀信です。
彼は「清州会議」で秀吉に織田後継者と指名された三法師のことで、豊臣政権では秀吉の家臣となっていました。
関ケ原合戦の前哨戦・岐阜城の戦いで、西軍に味方した秀信は善戦しますが敗れてしまいます。
そのため、秀信の織田嫡流は家康によって改易され、岐阜城も廃城となって激動の歴史に幕を閉じたのです。
現在の復興天守閣は、昭和31年(1956年)に再建され、鉄筋コンクリート造り3層4階建てになっています。
城内は史料展示室、楼上は展望台になっており、長良川や木曽山、日本アルプスなどの壮大な眺望を堪能できます。
また、日没から22時まではライトアップされて幻想的な雰囲気に包まれます。
期間限定ですが、夜間も営業しており眼下360度のパノラマ夜景が楽しめます。
山頂までは「金華山ロープウェイ」の利用が便利です。
城郭構造 : 山城
築城年 : 1201年
築城主 : 二階堂行政
主な城主 : 土岐氏 斉藤氏 織田氏
住所 : 岐阜県岐阜市金華山天主閣18番地
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 058-263-4853
営業時間 :
料金 : 大人 200円、小人 100円
公式サイト : 岐阜城
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福井県坂井市の丸岡城は、現在天守閣のみしか残っていません。
しかし、この天天守閣は「現存12天守」のひとつで、犬山城と並び日本最古の建築様式を残しています。
別名「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものです。
その名前の通り、春満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的で、ひときわ美しさを感じさせます。
丸岡城は、戦国時代の天正4年(1576)一向一揆の備えとして、織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせたのがはじまりです。
勝豊は、叔父の勝家が居城とした「北庄城」の支城として丸岡城を中心とした城下町を整備しましたが、勝家との仲はうまくいっていなかったようです。
信長の死後、勝家と羽柴秀吉との対立が激化すると、勝豊は秀吉側に寝返ってしまいます。
そして、勝家と秀吉の決戦「賤ヶ岳の戦い」の直前に、京都で病死しました。
古城によくあるように、この丸岡城にも怪奇伝説が残されています。
丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることになりました。
丸岡城下に住んでいた片目の未亡人「お静」は、息子を士に取り立ててくれる条件で自身が人柱になることを申し出たのです。
その願いが受け入れられ、お静は人柱として土中に埋められ、工事は無事完了しました。
しかし、城主・柴田勝豊は移封となってしまい、お静の願いは果たされなかったのです。
お静の怨霊は大蛇となって暴れまわり、城内に大雨をもたらしたと言われます。
現在、城内にはお静の慰霊塔が残っています。
丸岡城を中心としたエリアは「霞ヶ城公園」として整備されており、歴史的・文化的資源を有効に活用している公園として、「日本の歴史公園百選」に選ばれています。
また、「日本さくら名所100選」に選出されている桜の名所です。
二層三階の天守は、国の重要文化財に指定されており、城内は築城時の雰囲気を漂わせています。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
徳川家康の忠臣・本多作左衛門が陣中から妻に送った手紙です。
短いなかにも、大事なことが簡潔明瞭に言い尽くされている「日本一短い手紙」として有名になっています。
この手紙のなかの「お仙」は初代丸岡藩主・本多成重のことです。
この「日本一短い手紙」の里として、丸岡城近くにオープンした「一筆啓上日本一短い手紙の館(0776-67-5100)」もぜひ訪れたいスポットです。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1576年
築城主 : 柴田勝豊
主な城主 : 柴田氏、本多氏、有馬氏、青山氏
住所 : 福井県坂井市丸岡町霞町1-59
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0776-66-0303(霞ヶ城公園管理事務所)
定休日 : 年中無休
営業時間 : 8:30~17:00
料金 : 大人 450円、小中学生 150円
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北陸地方最大の都市であり、江戸時代には「加賀百万石」の城下町として栄えた 金沢 。
金沢城は、前田利家を祖とする外様の大藩・加賀藩の居城として幕末まで君臨しました。
戦後長らく金沢大学のキャンパスとして使用されてきましたが、現在「金沢城公園」として整備され、往時の偉容が着々と再現されつつあります。
金沢城のある場所は、もともと一向一揆で本願寺門徒の拠点となった尾山坊があった場所でした。
天正8年(1580年)織田信長は尾山坊を攻め落とし、佐久間盛政に築城を命じたのがはじまりです。
賤ヶ岳の合戦で佐久間盛政が刑死すると、羽柴秀吉の命で前田利家が所有することになりました。
利家は金沢城の改修工事に着手し、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べるとともに、金沢の都市整備を行います。
キリシタン大名で築城の名人として知られた高山右近を招き、金沢城設計の指示を仰いだと伝えられます。
豊臣秀吉の亡きあと、前田利家は五大老の重鎮として、同じ大老の徳川家康と対立しますが、まもなく病死してしまいます。
跡を継いだ前田利長は、家康から謀反の疑いをかけられて危機に陥りますが、母まつを人質に出すなどして疑いを晴らします。
そして、関ケ原合戦では東軍に味方して、加賀藩の礎を築いたのでした。
外様の大藩・加賀藩は幕府に睨まれやすい立場にあり、歴代藩主の気の遣い方は大変なものだったようです。
3代藩主だった前田利常は、大変な名君だったにもかかわらず奇行を行って警戒を解いたとされます。
面白いエピソードとして
1. 鼻毛を伸ばしていた。
家臣は見かねて手鏡を差し出すと、「この鼻毛のおかげで、お前たちが安泰に暮らしていけるのだ」といったとされる。
2. 江戸城内で立小便をした。
江戸城内に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金。」との札が立てられると、「大名が黄金惜しさに小便を我慢できるか」と立て札に小便をした。
などが伝えられています。
金沢城の天守は、慶長7年(1602年)に落雷で焼失して以来再建されていません。
金沢観光の必見スポット・兼六園は、もとは5代藩主・前田綱紀によって造営された池泉回遊式の大名庭園です。
日本三大名園のひとつであり、総面性約11ヘクタールの敷地内は、その名前の由来通り「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の6つの景観を兼ねていて見事です。
金沢城跡は「金沢城址公園」から「金沢城公園」へ改称され、菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋のほか、いもり堀・河北門も復元されています。
今後も復元改修工事が続く予定で、かつての偉容が蘇りつつあります。
隣接する兼六園も、外すことのできない必見の観光スポットです。
城郭構造 : 平山城
築城年数 : 1580年
築城主 : 佐久間盛政
主な城主 : 佐久間盛政 前田氏
住所 : 石川県金沢市丸の内1-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 076-234-3800
定休日 : 年中無休
営業時間 :
料金 : 大人 320円、小人 100円
公式サイト : 金沢城
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大阪府のシンボルのひとつ・大坂城は、豊臣秀吉が築城した天下の名城です。
天正11年(1583年)一向宗の拠点だった石山本願寺の跡地に、軍師・黒田官兵衛を総奉行として築城が開始されました。
この年、秀吉は宿敵・柴田勝家を滅ぼして織田家中の反秀吉派を一掃、天下統一に向けて邁進しはじめたのです。
安土城を参考にした大天守は、外観5層の黒漆喰で、瓦には黄金をふんだんに使用したと言われています。
周囲を2重の堀で囲み、難攻不落の名城が完成するまで15年近くの期間がかかりました。
内装も豪華絢爛、空前の富の集結を誇示して、訪問するものを驚かせたと言われています。
しかし、秀吉時代の遺構は何も残っていません。
すべて徳川時代に再建されたものなのです。
大阪の陣の結果、豊臣氏の運命とともに、大坂城は灰燼と帰しました。
大阪の地は天領(幕府直轄地)となり、領主は徳川将軍~将軍の居城にふさわしい城として、大坂城は再建されることになりました。
この際に、豊臣時代の遺構は徹底的に破壊されたと言われます。
天守の漆喰も、豊臣カラーの黒から、徳川カラーの城漆喰になりました。
徳川天守も、寛文5年(1665年)の落雷による火災で焼失、以後大坂城は天守のない城となったのです。
現在の復興天守は昭和3年(1928年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。
5層8階の天守の外観は、初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁で、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵が描かれています。
復興天守の内部は「大坂城天守閣」という博物館になっています。
こちらの展示物は秀吉や豊臣家に関するものがほとんどで、大阪での秀吉人気の高さが伺えます。
大坂城を中心とした大坂城公園は、市民の憩いの場。
105ヘクタールの広大な敷地内には、大坂城ホールや音楽堂があり、文化発信に役立っています。
城郭構造 : 輪郭式平城または平山城
築城年 : 1583年
築城主 : 豊臣秀吉
主な城主 : 豊臣秀吉 豊臣秀頼 徳川家(城代)
住所 : 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
マップ : Googleマップ
アクセス : 地下鉄天満橋駅、谷町四丁目駅、森ノ宮駅より徒歩15分
電話番号 : 06-6941-3041
定休日 : 12月28日~1月1日
営業時間 : 9:00~17:00(入館16:30まで)※夏季期間 延長あり
料金 : 大人 600円、中学生以下 無料
公式サイト : 大阪城
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現在、国宝およぶユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成要素になっている二条城とは、とても不思議な城です。
現存している二条城を含めて、異なる4つの二条城が存在して、それぞれ歴史に大きくかかわりを持ってきたのです。
今の二条城は、江戸時代初期に徳川家康によって築城されたものです。
それでは、過去に存在していた3つの二条城とは、どのような城だったのでしょうか。
1. 室町幕府13代将軍・足利義輝の居城
永禄8年(1565年)に義輝が幕府重鎮・斯波氏の屋敷跡に築城したものです。
義輝は、この城で「三好三人衆」の襲撃を受け暗殺されています。
2. 室町幕府15代将軍・足利義昭の居城
織田信長が上洛した際、足利義昭の居城として築城したものです。
やがて信長と義昭は不和となり、義昭は信長によって京都から追放され室町幕府は滅びました。
この二条城は解体され、天守や門は安土城築城に転用されました。
3. 織田信長が京に滞在中の宿所として整備し城
天正4年(1576年)信長は公家の「二条家」の屋敷を譲り受け、自身の京都滞在中の宿としました。
本能寺の変の際、信長嫡子・織田信忠はこの二条城で、明智軍と奮戦にすえ自刃して果てました。
信長・二条城は灰燼に帰してしまいます。
徳川家康も洛時の宿所として二条城を築城しました。
将軍が京都に滞在するということは、朝廷との面会の場所である意味合いを示しています。
慶長8年(1603年)征夷大将軍に任ぜられた家康は、二条城で重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行っています。
慶長16年(1611年)には家康と豊臣秀頼が二の丸御殿で会見を行いました。
そして、徳川幕府最後の日。
15代将軍・慶喜は二条城において大政奉還、朝廷に将軍職を返納したのです。
二条城は戦前に宮内庁の管轄だった時期があります。
そのため、正式名称は「元離宮二条城」となっています。
かつて歴史の大舞台だった本丸御殿や二の丸御殿が現存していて、見事な障壁画などを鑑賞できます。
国宝・重要文化財に指定された貴重な建造物を間近に鑑賞できるのも二条城観光の目玉です。
また、城内に3ヶ所ある庭園も四季折々の美しさを見せ、必見スポットとなっています。
城郭構造 : 輪郭式平城
築城年 : 1603年
築城主 : 徳川家康
主な城主 : 徳川氏
住所 : 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 075-841-0096
定休日 :
営業時間 : 8:45~16:00 ※7、8月は7:00~16:00(変動あり)
料金 : 入城料のみ(一般 620円)
公式サイト : 二条城
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ゆるキャラブームの火付け役・「ひこにゃん」でも有名になった彦根城は、琵琶湖を臨む美しい城です。
その天守は「現存12天守」に数えられ、附櫓・多聞櫓とともに国宝に指定されています。
彦根藩は徳川四天王のひとり・井伊直政を祖とする徳川譜代の藩であり、江戸時代を通じて何人も「大老」を輩出した名門です。
中でも幕末に大老に就任して、幕政を指揮した井伊直弼は最も有名な藩主です。
その彦根藩は、直政が関ケ原合戦の軍功によって、近江18万石を与えられたことに始まります。
直政は当初石田三成の居城だった佐和山城に入城しますが、彼は三成の居城を嫌って新しい城を築城することを計画します。
しかし、直政が関ケ原での古傷がもとで死亡したため、遺志を継いだ後継者・直継によって築城されたのが彦根城です。
彦根城は標高50mの彦根山(金亀山)に、慶長8年(1603年)から築城が開始され、元和8年(1622年)に完成しました。
佐和山城をはじめ、京極氏の大津城や浅井氏の小谷城など近江地方の旧城郭から遺構を移築したと伝えられます。
また、大名庭園である「玄宮園」も整備されました。
明治維新後に廃城の危機がありましたが、彦根城に感銘した明治天皇直々の命によって保存が決まったと言われています。
現在ユネスコ世界遺産登録に向けた運動が活発になっています。
ひこにゃんのモデルにもなったように、彦根・井伊家はネコと深い繋がりがあります。
縁起物の「招き猫」の由来のひとつに下記のような話が伝わっています。
彦根藩主・井伊直孝が江戸で鷹狩の帰りに、豪徳寺(東京都世田谷区)の前を通りかかりました。
この時、寺の飼い猫が直孝に手招きをしているので、この寺で休憩することにしました。
すると突然雷雨になって、休憩中の直孝は濡れずに済みました。
直孝は非常に喜んで豪徳寺に多額の寄進を行い、さらに井伊家の菩提寺としました。
ちなみに、井伊直弼の墓も豪徳寺にあります。
彦根城は、3層3階地下1階の天守をはじめ、国宝・重要文化級の遺構が保全されている貴重な城郭です。
建造当時の城郭様式を間近で観察することができます。
大名庭園の玄宮園・楽々園も含め、江戸の昔にタイムスリップしたような雰囲気を味わえます。
城巡り好きにはたまらない必見スポットです。
城郭構造 : 輪郭式平山城
築城年 : 1622年
築城主 : 井伊直継
主な城主 : 井伊氏
住所 : 滋賀県彦根市金亀町1-1
マップ : Googleマップ
アクセス : 彦根駅から徒歩で10分
電話番号 : 0749-22-2742
定休日 : 年中無休
営業時間 : 8:30~17:00
料金 : 一般 800円、小中学生 200円(玄宮園を含む)
公式サイト : 彦根城
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織田信長が天下統一の総決算として築城した「幻の名城」安土城。
今や石垣を残すのみですが、これまでの常識とはかけ離れた城郭だったと伝わっています。
安土城は天正4年(1576年)に、琵琶湖の東湖畔にある標高約198mの安土山に築城されました。
安土の地は琵琶湖の水運を利用して京まで出るのに便利で、中山道や北陸道にも通じている交通至便な場所でした。
また、加賀の一向一揆や、上杉謙信への警戒のために、信長はこの地での築城を選んだとも言われています。
安土城は5重7層の天主(天守)と石垣をもち、麓には計画的に城下町が整備されていました。
天主は地上6階、地下1階の構造になっていて、高さは35mあったと推定されています。
その外観は、階層ごとに壁が塗り分けられているのが特徴でした。
具体的には、黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、赤く塗られた層、青く塗られた層がある他、最上階は金色に輝いていたと伝えられます。
内装は、中国の故事や花鳥風月、釈迦の説法など様々なテーマの絵画が施されていたようです。
安土城の天主は、信長の権威と富の豊かさを象徴するものでありました。
天正10年(1582年)信長は本能寺の変で横死し、安土城は明智光秀の軍によって占拠されました。
そして山崎合戦での明智軍敗北・退却のあと謎の焼失をしてしまうのです。
原因として下記のようなことが言われていますが、信憑性に乏しく真相は謎のままです。
安土城は石垣部分と石段しか残っていません。
しかし、石段の広さや石垣の大きさから、往時の居城の面影を感じ取ることができます。
城下町跡には、家臣団の屋敷跡が残っていて、全体で1時間ほどで散策可能です。
城郭構造 : 山城
築城年 : 1576年
築城主 : 織田信長
主な城主 : 織田信長
住所 : 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
マップ : Googleマップ
アクセス :
営業時間 : 9:00~16:00
料金 : 入山料 大人700円、小中学生200円
公式サイト : 安土城
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別名「白鷺城」と優雅な名前をもつ姫路城は、現存12天守のひとつで国宝に指定されています。
国宝に指定されているのは天守だけでなく、渡櫓等8棟、また櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟など74棟が重要文化財に指定に指定されています。
平成5年(1993年)には、我が国初のユネスコ世界遺産にも指定されている「世界の宝」でもあります。
姫路城は江戸初期の大改修時の姿をほぼ留めていますが、過去に何度か危機に遭遇しています。
まず明治維新後の廃城令で廃城の危機に会い、競売にかけられましたが、城下の金物商によって23円(現在の価格でも10万円位)で落札されて危機を逸しました。
また、太平洋戦争の空襲でも、大天守に落ちた爆弾が不発弾だったという幸運にも恵まれています。
そればかりか、過去に一度も戦を経験していない稀有な城なのです。
姫路城の築城は古く、遥か南北朝時代に赤松貞範によるものが最初とされています。
しかし、城郭らしき姿に改修したのは戦国時代の黒田氏によるもので、のちの秀吉の軍師・黒田官兵衛が城主代を勤めていました。
羽柴秀吉が毛利氏との決戦に備えて姫路に赴いた際、官兵衛は姫路城を献上してしまいます。
中国遠征の秀吉の拠点として、明智光秀との決戦に向かった「中国大返し」の中継地として、姫路城は重要な役目を果たしました。
その姫路城が大改修され、現在の大規模な姿になるのは関ケ原合戦後に池田輝政が城主になってからのことです。
輝政は慶長6年(1601年)から8年の歳月をかけて大改修を行ったのです。
江戸時代には姫路藩の政庁としてだけではなく、西国の外様大名の動向を監視する「西国探題」として、親藩・譜代大名中心に城主が目まぐるしく代わりました。
姫路城は全てが見どころであるといっても過言ではありません。
城域は広く、天守や門、櫓などじっくり見学すると2時間以上かかります。
また、情緒たっぷりの日本庭園「好古園」も必見スポットです。
姫路城には有名な「播州皿屋敷」のお菊井戸、宮本武蔵の妖怪退治などの伝説があり、魅力たっぷりです。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1346年
築城主 : 赤松貞範
主な城主 : 黒田氏 池田氏 本多氏 酒井氏
住所 : 兵庫県姫路市本町68
マップ : Googleマップ
アクセス : JR姫路駅、山陽姫路駅より徒歩20分
電話番号 : 079-285-1146
定休日 : 12月29日~30日
営業時間 : 9:00~16:00(夏季期間は9:00~17:00)
料金 : 大人 1,000円、小人(高校生まで)300円
公式サイト : 姫路城
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竹田城は「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と称される、雲海に包まれた偉容で有名な絶景スポットです。
その縄張りが虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう)」の別名があります。
標高353mの虎臥山の山頂に築かれた竹田城は、今や石垣を残すのみですが、その石垣は400年近く前の状態を保っています。
城の縄張りは南北約400m、東西100mで天守台や二の丸跡などの配置がはっきりと残っています。
その規模は現存する山城としては、最大級の大きさを誇っています。
竹田城の築城については不明な点が多いのですが、室町時代に実力者・山名宗全(1404-1473)によって13年の歳月をかけて建造されたとも言われています。
山名宗全といえば、応仁の乱の際には一方(西軍)の総大将だったことで有名な武将です。
その後の戦国時代には羽柴秀吉と毛利家の争いの場となり、一時期秀吉の異母弟・羽柴秀長が城主代になっていた時期があります。
関ケ原の合戦で当時の城主・赤松広秀が西軍に味方して滅亡、竹田城は廃城となったのです。
現在の竹田城は、この赤松広秀の時代に完成したものです。
竹田城の最大の見どころは、やはり「天空の城」を鑑賞することでしょう。
竹田城のある兵庫県朝来市周辺(丹波地方)では晩秋のよく晴れた早朝に朝霧が発生することが多く、この地方の風物詩となっています。
雲海を期待するなら、9月下旬から11月の日の出前から午前8時頃までが一番狙い目です。
風が無風に近い、朝と日中の気温差が大きい、丹波地方に濃霧注意報が出ていることも重要な要素です。
前日に雨が降った後、翌日晴れた日には雲海が発生しやすいようなので参考にしてみてください。
雲海は城跡でも鑑賞できますが、近くの朝来山(756m)中腹に位置する「立雲峡」展望台からは竹田城跡全貌が鑑賞できます。
城郭構造 : 山城
築城年 : 1431年?
築城主 : 山名宗全?
主な城主 : 太田垣氏 羽柴秀長 桑山重晴 赤松広秀
住所 : 兵庫県朝来市和田山町竹田
マップ : Googleマップ
アクセス
: JR竹田駅から登山道経由で徒歩40~60分
または「天空バス」で中腹駐車場まで行き徒歩20分
電話番号 : 079-674-2120(和田山町観光協会)
営業時間 :
料金 : 大人(高校生以上) 500円
公式サイト : 竹田城
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「川面に映える漆黒の名城」岡山城は、その黒い天守漆喰からカラスに例えて「鳥城(うじょう)」とも呼ばれます。
黒い天守は、豊臣系の象徴。
秀吉の寵臣・宇喜多秀家によって築城されたのです。
岡山城の前身がいつ築城されたのかはっきりしたことは不明ですが、南北朝時代に南朝方の功臣・上神高直によって砦が築かれたのが始まりとされます。
戦国時代になって下剋上の梟雄・宇喜多直家が台頭し、岡山城(当時は石山城)に入城。
美作・備中、備前を支配する大名になりました。
その直家の子・宇喜多秀家は秀吉の寵愛・庇護を受け、岡山57万石の大大名に出世、豊臣政権の重鎮として活躍することになります。
秀家の大身にふさわしい居城として、秀吉の指導のもと大改修されたのが、今の岡山城です。
豊臣政権で五大老に任ぜられた秀家は、秀吉亡き後に豊臣から政権奪取を謀る徳川家康と対立します。
関ケ原合戦では、西軍の副大将として奮戦しますが敗れて、改易処分となり八丈島に流刑となってしまいました。
宇喜多氏のあと岡山城に入城したのは、小早川秀秋。
関ケ原で味方を裏切った最大の功労者?です。
小早川秀秋は秀吉正室・北の政所の甥、もともと豊臣家の一族です。
小早川秀秋もわずか2年後に狂死して断絶、池田氏の支配するところとなって幕末を迎えました。
日本三大名園のひとつ「後楽園」は、5代藩主・池田綱政によって造営された大名庭園です。
昭和41年(1966年)に再建された天守は、3層6階建てで、書院造の居間(城主の間)が再現されています。
天守内は歴史博物館となっており、岡山城の歴史を確認することができます。
戦災を免れた「月見櫓」をはじめとして、「不明門」「廊下門」など見どころが豊富です。
大名庭園「後楽園」もおすすめスポットです。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1346年?
築城主 : 上神高直?
主な城主 : 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏
住所 : 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 086-225-2096
定休日 : 12月29日~31日
営業時間 : 9:00~17:30(入場は17:00まで)
料金 : 大人 320円、小中学生 130円
公式サイト : 岡山城
備中松山城は、古い天守だけでなく雲海まで楽しめる、城好きにはたまらないスポットです。
まず、この城の天守は江戸時代初期に改修された、現存12天守のひとつであること。
もうひとつは標高430mの現存天守の中では最も高い場所に位置するため、雲に浮かぶ天守を鑑賞できるのです。
また、この城郭は、NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像にも使われました。
備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ります。
戦国時代に三村元親が、この城を拠点に一大要塞を築いて備中のほぼ全域を支配していました。
しかし、三村氏は毛利氏によって滅ぼされ、以降は毛利氏の領有することになったのです。
江戸時代になって「備中松山藩」の居城となりました。
現在の天守は藩主・水谷勝宗が天和元年(1681年)から3年がかりで改修したものです。
忠臣蔵で有名な大石内蔵助が城番を勤めていたこともあると伝えられています。
臥牛山・小松山の山頂(430m)には、2層2階の天守の他、二重櫓、大手門や櫓の礎石、土塀、高い石垣などが残っています。
雲海を一番鑑賞しやすいのは、11月上旬から12月上旬にかけての、明け方から午前8時頃がおすすめです。
朝と日中の気温差が大きく、付近に濃霧注意報が出ている時が、雲海が発生しやすいようです。
12月中旬から2月末までは、降雪のおそれがあるため注意が必要です。
なお、雲海鑑賞については、「備中松山城展望台:岡山県高梁市高梁市奥万田町」からの展望がおすすめです。
城郭構造 : 山城
築城年 : 1240年
築城主 : 秋庭三郎重信
主な城主 : 三村氏 水谷氏 板倉氏
住所 : 岡山県高梁市内山下1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 0866-22-1487
定休日 : 12月29日~1月3日
営業時間 :
料金 : 大人 500円、小中学生 200円
公式サイト : 備中松山城
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広島といえば、広島カープ~その鯉は広島城は別名「鯉城」とよばれることに由来します。
岡山城、名古屋城とともに日本三大平城に数えられます。
かつては広大な城域を誇り、天守をはじめ城郭建築が現存していましたが、原子爆弾投下によりすべてが失われました。
現在の広島城の建造物はすべて昭和33年(1958年)以降に復元されたものです。
広島城は天正17年(1589年)中国の太守・毛利輝元によって築城されました。
輝元は、大坂城や聚楽第を訪問したことで、平地に新しい城を作って、城下町を繁栄させる必要性を感じます。
海上交易路である瀬戸内海の水運を活かしやすく、城下町を形成しやすかったなどの原因があげられます。
そうして完成した広島城は、5重5階の天守をもち、毛利112万石にふさわしい偉容でした。
ところが2年後の関ケ原合戦で、輝元は西軍総大将を引き受けていたため、減封となり広島城を明け渡すことになります。
続いて広島へ入城したのは福島正則、広島49万石の藩主となって広島城をさらに拡張します。
堀が完成し、1キロ四方の広大な城となったのです。
福島正則は、幕府に無届で広島城を修復したとの咎により、元和5年(1619年)改易され信濃国川中島へ転封されてしまいます。
その後、浅野長晟が42万石で広島城主となると、幕末まで浅野家の居城となったのです。
原子爆弾で壊滅させられた広島城は、昭和33年(1958年)に復元されました。
天守は毛利時代の意匠を外観復元し、曲輪などの配置は秀吉の聚楽第を参考にしたと言われています。
天守内部は博物館として、広島城の歴史や城下町のくらしを知ることができます。
城郭構造 : 平城
築城年 : 1589年
築城主 : 毛利輝元
主な城主 : 毛利輝元、福島正則、浅野氏
住所 : 広島県広島市中区基町21-1
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 082-221-7512
定休日 : 12月29~31日
営業時間 :
料金 : 大人 370円、シニア(65歳以上)・高校生 180円、中学生以下 無料
公式サイト : 広島城
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松江城は、入母屋破風の屋根が羽を広げたように見えることから別名「千鳥城」とも呼ばれています。
全国に現存する12天守の一つで、天守の平面規模では2番目、高さでは3番目、古さでは5番目にランキングされています。
平成27年(2015年)に天守が国宝に指定されました。
天守展望台は、宍道湖や大山を一望できる絶景スポットになっています。
松江城は、慶長16年(1611年)堀尾忠氏によって築城されました。
関ケ原の合戦の功によって松江藩24万石の領主になりましたが、居城とした月山富田城は山城で、城下町を造るのには不便だったのです。
堀尾氏が3代で改易後、京極氏の支配を経て、信濃松本藩・松平氏が入封し、幕末まで続きました。
明治になって天守以外の城郭は、すべて撤去されましたが、平成になって廊下門(千鳥橋)や中櫓・太鼓櫓などが復元されています。
4重5階地下1階の現存天守は、築400年の重みが感じられ、江戸初期の建築様式を観察できます。
天守は標高29mの亀田山に存在し、宍道湖を眺望できる絶好のスポットになっています。
元旦の初日出、春の花見、秋の名月鑑賞会など城のイベントも盛り沢山です。
住所 : 島根県松江市殿町1-5
マップ : Googleマップ
アクセス : JR松江駅からぐるっと松江レイクラインで約11分・国宝松江城大手前 下車
電話番号 : 0852-21-4030
休観日 : 年中無休
拝観時間 :
料金 : 大人 680円/小・中学生 290円(本丸への入場は無料)
公式サイト : 松江城
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山口県萩市 は、かつて長州藩の政庁があったところであり、古風で情緒ある街並みが人気の観光地です。
幕末の長州藩は、吉田松陰・木戸孝允・高杉晋作など多くの傑出した人材を輩出し、明治維新の原動力となったことでも知られています。
萩城は、長州藩29万石の居城であり、江戸時代265年を通じて、毛利家が統治していました。
現在では、石垣や堀の一部を残すのみですが、その遺構から往時の繁栄を偲ぶことができます。
毛利輝元は、関ケ原合戦の西軍総大将としての責任を問われ、西国112万石の太守から、長門・周防2国に減封され、居城の広島城を明け渡しました。
その輝元が新天地の居城として、慶長9年(1604年)に築城したのが萩城です。
標高143mの指月山に築かれましたが、山麓に平城(本丸・二の丸・三の丸)を設置して政庁を置き、山頂には山城(詰丸)を配置して要害とする構成でした。
その指月山そのものが、三方を海に囲まれた天然の要塞だったのです。
5層5階の天守(高さ21m)が存在し、本丸の広さは東西約200m・南北約145mあったと言われています。
幕末の文久3年(1863年)、時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で、萩城から山口に藩庁を移し、萩城の藩庁としての役割を終えました。
そして、明治7年(1874年)の廃城令によって、天守を含めすべての建造物が棄却されてしまったのです。
萩城では、新年を迎えると、重臣たちが藩主に「今年はいかがでしょうか?」と尋ねる秘儀が、脈々と伝わってきたと言われます。
意味することは、「今年こそ徳川に復讐しませんか?」ということです。
内心に秘める徳川に対する怨念。
幕末の長州の地で一挙に爆発し、討幕・維新の原動力となったのです。
萩城のあった指月山麓は「萩城跡指月山公園」として整備され、天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があります。
春にはおよそ500本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所となっています。
また、園内には花びらが純白色の珍しい桜・「ミドリヨシノ」があります。
日本では萩でしか見ることのできない貴重な桜で、山口県の天然記念物に指定されています。
萩の城下町には松下村塾跡や明倫館、幕末・維新の偉人の旧宅が保存され、街全体が博物館のようになっているので散策には最高です。
城郭構造 : 平城、山城の2構成
築城年 : 1604年
築城主 : 毛利輝元
主な城主 : 毛利氏
住所 : 山口県萩市堀内1-1
マップ : Googleマップ
アクセス : 萩循環まぁーるバス(西回りコース)「萩城跡・指月公園入口 北門屋敷入口」バス停より徒歩5分
電話番号 : 0838-25-1826(指月公園料金所)
定休日 : 年中無休
営業時間 :
料金 : 大人220円、小・中学生100円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券)
公式サイト : 萩城跡指月公園
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松山城と称される城は、先にご紹介した備中松山城を含めて、全国に10カ所あります。
その中でも一般的に「松山城」と呼ぶ場合は、この伊予・松山城を指します。
江戸時代に建造された天守を含めて21棟の建造物が現存しており、この数は二条城(28棟)に次いで2番目を誇ります。
ミシュラン観光版日本編(2009年度)では二つ星に選定されている、おすすめの観光スポットです。
松山城は、松山市の中心部にある勝山(標高132m)の山頂に聳える平山城です。
慶長7年(1602年)関ケ原合戦の功により、伊予20万石の所領を得た、加藤嘉明によって築城されました。
加藤嘉明は豊臣秀吉子飼いの家臣の一人で、「賤ヶ岳七本槍」で勇名を馳せた人物です。
彼がこの地を「松山」と命名したことが、現在の松山市の由来となっています。
加藤氏のあと、蒲生氏の時代を経て、寛永12年(1635年)から松平(久松)氏の所領となって明治維新を迎えました。
松山城の本丸の建造物群は、明治になっても殆ど棄却処分されることはありませんでした。
しかし、昭和8年(1933年)放火によって、大天守を除く小天守、南北隅櫓、多聞櫓等大部分の建造物を焼失してしまいます。
他にも戦災などによって失われた建造物もあります。
この焼失した建造物は、昭和33年(1958年)から木造による本格復元が行われています。
松山城の二之丸史跡庭園は、松山藩の政庁及び藩主の居住空間があった場所です。
庭園となっていて、茶室のほか四季折々の草木や果実を鑑賞することができます。
この二之丸史跡庭園は、2013年に「恋人の聖地」に選定されました。
例えば、下記のようにロマンチックでプロポーズにふさわしい場所として評価されたことが理由のようです。
明治の俳人・正岡子規は故郷・松山城の天守閣を 「松山や 秋より高き 天主閣」 と詠っています。
この現存12天守に数えられる天守閣は、3重3階地下1階の構造で20mの高さを誇ります。
天守から臨む市内の夜景はまさに絶景です。
天守の他にも、21棟の重要文化財に指定されている建造物群は必見です。
広大な城域には、二之丸史跡庭園や城山公園堀之内地区などの観光スポットも豊富にあります。
山頂まではロープウェイ・リフトが運航されています。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1602年
築城主 : 加藤嘉明
主な城主 : 加藤氏、蒲生氏、久松松平氏
住所 : 愛媛県松山市丸之内1
マップ : Googleマップ
アクセス : JR松山駅から「道後温泉行き」市内電車で約10分、「大街道」下車徒歩5分
電話番号 : 089-921-4873(松山城管理事務所)
定休日 : 12月第3水曜日
営業時間 :
料金 :
公式サイト : 松山城
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南海の名城・高知城は、天守だけではなく本丸の建造物が完全に残る唯一の城です。
高知県および高知市の名前は、この高知城に由来します。
高知城は土佐藩24万石の居城として、江戸時代を通じて山内氏が一貫支配してきました。
高知城の前身は、遥か南北朝時代に付近の豪族・大高坂氏によって築かれた大高坂山城だと言われています。
大高坂氏は南朝に味方して奮戦するも敗北、大高坂山城は以来廃城となっていました。
戦国時代に土佐の国を支配していたのは長宗我部氏で、長宗我部元親は豊臣秀吉に敗北するまで四国全土を勢力下にするほど強大なでした。
その元親が廃城となっていた大高坂山城に、新たな拠点を築いたのです。
しかし、水はけの悪さから3年で断念、桂浜に浦戸城を築いて居城としていました。
慶長6年(1601年)元親の子・長宗我部盛親は関ケ原合戦で西軍に味方し、その後の不手際もあって土佐の領地を没収されてしまったのです。
長宗我部氏のあと土佐に入国したのは、山内一豊です。
山内一豊は静岡・掛川城の城主でしたが、関ケ原合戦前夜のある行動が家康から評価され、異例の大出世となったのです。
一豊の妻・千代は良妻として有名で、常に機転の働いた行動で夫を助けてきました。
貧しかった頃、へそくりを工面して一豊に名馬をプレゼントした話は有名です。
石田三成からの誘いの書状で動揺する夫を叱咤した後、その書状を未封のまま家康に差出し、さらに居城の掛川城を家康に献上するように伝えたと言われます。
一豊が千代の言われたとおりに実行したところ,他の豊臣恩顧の大名たちも追随して、家康は大喜び。
土佐一国の褒美を受けたのです。
一豊は長宗我部元親が断念した大高坂山城の大改修に着手、水はけの悪さを解消するために築城の名人・百々綱家(織田秀信の元家老で近江穴太衆の元締)をブレーンに城を完成されます。
完成した城は河中山城(こうちやまじょう)と改名され、やがて高智山城⇒高知城になったと言われます。
また、3層6階の天守は以前の居城であった掛川城を模したと言われています。
重要文化財に指定されている15棟の建造物は、江戸期から現存しているものが大半で、当時の建築様式を真近で確認することができます。
近江穴太衆が造ったとされる石垣も必見の価値があります。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 南北朝時代
築城主 : 大高坂氏?
主な城主 : 山内氏
住所 : 高知県高知市丸ノ内一丁目2番1号
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 088-824-5701
定休日 : 12月26日~1月1日
営業時間 : 9:00~17:00(最終入場16:30まで)
料金 : 18歳以上 420円
公式サイト : 高知城
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福岡城は、福岡市の発祥とともに歩んできた城です。
「福岡」の名前も、この城の命名に由来します。
往時には内城部分だけでも、41万平方メートルにも及んで九州随一の巨所だったと言われています。
現在は国の重要文化財に指定されている「南二の丸多聞櫓」や大手門、祈念櫓などが現存しています。
福岡城の沿革は、慶長5年(1600年)に黒田長政が筑前52万石を拝領したことにはじまります。
黒田長政は、秀吉に天下獲りに貢献した名軍師・黒田官兵衛の子で、関ケ原合戦では東軍勝利に大きく貢献しました。
筑前に入国した長政は、博多湾を臨む警固村福崎の丘陵地に、新天地の居城を築くことを決めます。
福崎は、古代に大宰府の鴻臚館が設置されるなど要衝の地であり、筑紫平野を押さえるには最適な場所だったのです。
この時に、黒田一族ゆかりの地である「備前福岡」の名にちなみ、福崎を福岡に改名したと言われます。
城下町として発展した福岡は、現在まで続く大都市・福岡市の礎となりました。
長政は、福岡城を築城する際に朝鮮の堅城・晋州城を模範にしたと伝わります。
父・官兵衛も築城の名手として知られ、大坂城をはじめ多くの城建設に携わっています。
この黒田父子が7年の歳月をかけ、丹精こめて築城したのが福岡城なのです。
天守が存在したことをうかがせる古い記述が存在しますが、確かなことはわかっていません。
以来明治維新を迎えるまで一貫して黒田氏が居城、統治してきました。
筑前黒田家に改易の危機が訪れたことがあります。
長政の子・忠之は狭器と粗暴な性格で、藩主になる器にあらずと、長政が廃嫡を考えるほどの人物でした。
宿老の栗山大膳は忠之を徹底して庇い、長政に自分が後見役として支える条件で廃嫡を取りやめさせました。
やがて藩主となった忠之は、しだいに大膳を疎ましく感じるようになり、対立するようになっていったのです。
幕府から禁じれている豪華な船を建造したり、寵臣を重用したり、新たに兵を雇ったり…幕府によって謀反を疑われ取り潰しになってもおかしくない状況になっていきました。
憂慮した大膳は、とうとう幕府に「忠之に謀反の疑いあり」と上訴する事態に発展してしまいました。
これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
果たして幕府の裁定は、以下のようなものでした。
幕府の重臣の中には、長政ゆかりの黒田家を取り潰しにはしたくないとう者も存在していて、結局黒田家は生き残り、大膳は配流地で悠々自適の余生を過ごしたと言われています。
森鴎外の小説『栗山大膳』は、この事件をもとに執筆されたものです。
福岡城跡は、内城を中心とした48万平方メートルが国指定史跡になっています。
本丸から三の丸一帯が舞鶴公園として、外堀が大濠公園として整備され、市民の憩いの場となっています。
現存する櫓や門、天守台などの遺構からは、往時の居城の繁栄を偲ぶことができますよ。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1601年
築城主 : 黒田長政
主な城主 : 黒田氏
住所 : 福岡県福岡市中央区城内
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 092-711-4666(文化財保護課)
営業時間 : 堀外壁石垣は毎週土曜日10:00~17:00公開(年始年末の土曜は非公開)
料金 : 無料
公式サイト : 福岡城むかし探訪館
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熊本城は九州エリアだけでなく、日本を代表する名城です。
名将・加藤清正によって築かれた黒漆喰の大天守は、圧巻の美しさを誇ります。
平成28年(2016年)の熊本地震で、石垣や天守・櫓などに大きな被害を受けましたが、震災復興のシンボルとして注目を浴びています。
加藤清正(1562-1611)は、豊臣秀吉子飼いの武将であり、秀吉とは親戚関係にあった人物です。
幼少期より秀吉に仕え、賤ヶ岳の合戦など数々の戦功を挙げ、最終的には肥後52万石の大名となりました。
終生秀吉および後継の豊臣秀頼に対する忠義を忘れなかった人です。
熊本城のあった場所には、室町時代に築城された千葉城・隈本城がありました。
天正15年(1587年)関白秀吉は、20万以上の大軍を率いて九州に遠征、薩摩の島津義久を屈服させます。
当初肥後の地は佐々成政に与えられましたが、失政により失脚。
清正は小西行長とともに肥後半国の大名に抜擢されました。
肥後に入国した清正は天正19年(1591年)、葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めます。
関ケ原合戦後、肥後全土52万石の大大名となった清正は、完成した新城を「熊本城」と名付けました。
清正の死後、加藤家は改易されていしまい、細川忠利が肥後を領有、以後は細川家の所有する城として明治維新を迎えます。
明治になり、西南戦争の戦火に巻き込まれて、天守ほか多くの建造物が焼失してしまいます。
現在の天守は昭和年(1960年)に再建されたものです。
明治になって熊本城には「鎮西鎮台(陸軍の駐在師団のこと)」が設置されました。
この時に天守を含む本丸主要部以外は、すべて棄却されてしまったと言われます。
明治10年(1877年)西郷隆盛を担いだ鹿児島の反乱士族が蹶起し、西南戦争が始まります。
西郷軍が攻撃の目標に掲げたのは鎮台のある熊本城でした。
しかし、西郷軍の攻撃の2日前に、天守を含めた熊本城は謎の出火で焼失してしまいます。
炎上する熊本城を見た地元の人は、「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…。」と嘆き悲しんだと言われます。
現在では出火の原因は、兵に籠城の覚悟をさせるため鎮台長官・谷干城が放火したとの説が有力になっています。
この時焼失した建造物は、大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門など多数に渡ります。
西南戦争での熊本城攻防戦は熾烈を極め、田原坂で敗れた西郷軍は滅亡の道を辿ることになりました。
熊本城の石垣の「武者返し」を突破できす、落城されることができなかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と語ったと伝えられます。
熊本地震の影響により、天守を含む多くの部分が現在立ち入り禁止となっています。
二の丸広場や加藤神社、その周辺から、天守閣や櫓等を遠望するのみとなっています。
熊本城の再建天守は外観3層、内部は内部は6階地下1階建てになっており、熊本博物館の分館となっています。
天守展望台から、遠く阿蘇の山並みを見渡すことができます。
西南戦争で西郷軍を寄せ付けなかった武者返しの石垣は、下はゆるやかですが、上にいくにつれて反り返しが激しくなります。
武士はおろか、忍者ですら登るのを諦めたと言われるる石垣は、築城当時の状態を保っています。
本丸御殿の最深部に存在する「昭君の間」は、平成20年(2008年)に復元完成しました。
黄金にきらめく豪華絢爛な部屋で、一番格式の高い場所だち言われています。
中国の故事に登場する美女・王昭君の絵画が描かれているから命名されたとのことですが、本当は「将軍の間」の隠語であるとされています。
一説によると清正は、豊臣秀頼を招聘するために造営した部屋であり、豊臣家有事の際には、秀頼公を匿って徳川と一戦構える覚悟だったようです。
大阪の陣の前に清正は亡くなってしまいましたが、生存していたらどんな展開になったか想像するだけでも楽しいですね。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1469-1487年頃
築城主 : 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
住所 : 熊本県熊本市中央区本丸1-1
マップ : Googleマップ
アクセス : 熊本駅から花畑町まで電車で15分 花畑町から徒歩5分
電話番号 : 096-352-5900
定休日 : 12月29日~12月31日
営業時間 :
料金 : 変動があるので公式サイトにて確認して下さい
公式サイト : 熊本城
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鹿児島城は、鶴が翼を広げるような形状をしているため、別名「鶴丸城」と呼ばれています。
今でも地元では、鶴丸城の呼び名の方が一般的に普及しています。
薩摩藩77万石の居城として一貫して島津氏が居城してきました。
鹿児島城は天守を持たない城でした。
関ケ原の合戦で徳川と敵対したため、幕府に対する恭順から天守を造らなかったと祝われていますが、敢えて造る必要のない特有の制度が存在していたのです。
それが「外城制度」で、「人をもって城と成す」を藩の方針とした島津家独特の考え方でした。
鹿児島城は専ら攻めを中心として築城された城であって、外敵から守る発想はなかったようです。
もともと薩摩藩は、総人口に対する武士の割合が26%と高く、領内を区分して武士を定住させて、軍事的な拠点を造ると同時に、農民や漁民を効率的に支配していました。
このような地区が、薩摩全域で最盛期92カ所あり、藩主の居城(内城)に対して外城と呼んでいたのです。
外城内に住む領民は有事の際、領主や地頭の指揮下で戦に参加する役割になっていました。
それぞれの外城の領民がそれぞれの外城を守り、それぞれの外城が内城を守る役割を担っていたのです。
そのため、本城が直接外敵の脅威を受けることは少なかったと考えられています。
鹿児島城は慶長7年(1602年)に島津忠恒によって、城山とその麓に築城されました。
この地は風水で縁起の良いとされる「四神相応」の地でありました。
関ケ原の合戦で西軍に味方して敗れた島津氏に対して、徳川家康は誅伐を検討しており、その脅威に対抗するための築城でした。
しかし、徳川の誅伐は実行されず、島津家は本領安堵のまま外様大名として存続することになりました。
文久3年(1863年)薩英戦争の際には、イギリス海軍から砲弾を反発も撃ち込まれる被害にあっています。
その幕末期には、薩摩藩は長州藩とともに討幕の中心勢力となって明治維新を推進する原動力となりました。
鶴丸城は、明治7年(1874年)に焼失し、その後再建されることはありませんでした。
その年、西郷隆盛は旧鹿児島城の跡地に「私学校」を設立しました。
私学校の暴発が西南戦争のきっかけとなり、城山の地は、西郷らの自害した西南戦争終焉の地となったのです。
現在の鹿児島城はほとんど残っていません。
遺構として石垣や堀、石橋などが残っているだけです。
跡地には、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」が建てられ、鹿児島に関する貴重な史料が多数収められいます。
また、城山を含めたエリアには、私学校跡、西郷隆盛の銅像など西南戦争関連の史蹟が残っています。
城郭構造 : 平山城
築城年 : 1602年
築城主 : 島津忠恒
主な城主 : 島津氏
住所 : 鹿児島県鹿児島市城山町7
マップ : Googleマップ
アクセス :
電話番号 : 099-298-5111
営業時間 : 見学自由
公式サイト : 鹿児島城
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沖縄県は明治12年(1872年)の「琉球処分」によって日本に併合されるまで、琉球王国という独立国でした。
そのため本土とは異なる独自の文化・歴史を育んできました。
首里城は、琉球王国の王城であり、様式も今までご紹介した国内の城とは異なるものと認識できます。
それでは、首里城の説明に入る前に、琉球王国とはどんな国だったのか、簡単におさらいしておきましょう。
琉球王国は、1429年から1879年まで約450年間続いた国です。
版図は今の沖縄県全域と奄美諸島にまで渡っていました。
海洋交易国家であり、東シナ海の地の利を活かした中継貿易で大きな役割を果たし、交易範囲は東南アジアまで及んでいました。
外交的には中国(明および清)の冊封を受けており、1609年に薩摩藩の侵攻を受けてからは薩摩藩の支配下に組み込まれました。
実質は中国と薩摩の二重支配を受けながらも、独立国としての体裁は保ってきたのです。
琉球王国成立前の沖縄本島は、北山・中山・南山の3つの国に分かれていました(三山時代)。
尚巴志王(1372-1439)は、この三山を統一して琉球王国を成立させました(第一尚氏時代)。
首里城はもともと中山王の居城であり、14世紀末頃に築城されたと思われます。
琉球王国成立に伴い、尚巴志王は首里に首都を置き、この首里城を拠点にしました。
1462年、重臣・金丸がクーデターによって新政権を樹立(第二尚氏時代)。
この時代に琉球王国は最盛期を迎え、王府である首里城も最も栄えた時代です。
1609年、薩摩藩の侵攻を受け、薩摩の支配下になりましたが、独立国としての体裁は保持しました。
1853年の米海軍・ペリーの来航の際には「琉米修好条約」を締結しています。
そして、明治政府の琉球処分を迎え、琉球王国は幕を閉じます。
最終的には日清戦争の日本圧勝の結果、琉球は完全に日本の領土となったのでした。
沖縄の城は「グスク」とよばれ、本土の城の特性(軍事的存在)だけでなく宗教的な役割も兼ねていました。
城内には御嶽(うたき)とよばれる礼拝所が、10ヶ所近く存在していたと言われます。
琉球神道による祭祀が行われていましたが、祭祀の詳細はわかっていません。
一説によると、首里城の南側は有数の聖域とされ、この聖域こそ首里城発祥の地だったとされています。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しています。
正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としていますが、これも首里城の特徴のひとつです。
首里城の正殿は、大正14年(1925年)に特別保護建造物(国宝)に指定され、昭和2年(1927年)から正殿の大改修工事が行われました。
しかし、太平洋戦争末期の沖縄戦で、首里城は米軍の爆撃を受け消滅してしまったのです。
戦後は首里城跡に、琉球大学のキャンパスが設置されていましたが、地元の人からの首里城再建は悲願だったのです。
昭和33年(1958年)の守礼門の再建をはじめに再建事業が本格化、平成4年(1992年)首里城はもとあった場所に再建されました。
そして、平成12年(2000年)には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素としてユネスコ世界遺産に登録されたのです。
再建された首里城を中心としたエリアは「首里城公園」として整備され、遥か琉球王朝時代にタイムスリップしたような気分が味わえます。
守礼門は沖縄のシンボル、2000円札の絵柄にもなった必 見スポットです。
また、首里城内にはパワースポットが豊富にあり、運気向上に役立つかもしれません。
※2019年10月31日、首里城正殿を含む建物8棟が焼損したため、復興に向けての作業が進められています。
城郭構造 : 山城
築城年 : 14世紀末(推定)
築城主 : 不明
主な城主 : 第一尚氏、第二尚氏
住所 : 沖縄県那覇市首里金城町1丁目2番地
マップ : Googleマップ
アクセス :
首里城公園入り口バス停から徒歩で5分
那覇バスターミナルからバスで30分(市内線9番・市外線25番に乗車し、山川バス停にて下車、徒歩約15分で守礼門に到着。)山川バス停から徒歩で15分
那覇空港駅からモノレールで27分首里駅から徒歩で15分
那覇空港駅からモノレールで27分電話番号 : 098-886-2020(首里城管理センター)
定休日 : 7月の第1水曜日とその翌日
営業時間 :
料金 : 大人 400円、中人(高校生)300円、小人(小中学生)160円、6歳未満 無料
公式サイト : 首里城
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全国縦断の城・城跡めぐりの旅、楽しんで頂けましたでしょうか。
かつて日本中に多く存在していた城は、今やだいぶ少なくなってしまいました。
江戸時代まで政治の中心として栄えた城も、明治の世になって「無用の長物」として棄却されたり、また天災や戦災で失われたり…
多くの城は、戦国時代から江戸幕末までに築城されています。
有力大名の居城として栄華を極めた城、攻防戦で輝かしい戦歴を持つ城、落城で悲しい過去を持つ城、歴史と人間模様が凝縮しているのです。
私たちが城に魅せられるのは、その美しさだけでなく、先祖たちの息遣いを肌で感じることが出来るからではないでしょうか。
個性豊かな日本の城~今度の休暇には、カメラと歴史小説片手に、お気に入りの城を訪ねてみませんか?
最終更新日 : 2023/11/27
公開日 : 2017/08/21